みかみ一桜本人のこと
自分紹介1万字
俺は、広島の貧乏な家に生まれた双子のガキだった(俺、兄貴)。
貧乏だったので、おもちゃとかを買ってもらえず、他の子供たちが羨ましいと感じたことが何度もあったものだ。
羨ましいと感じたもの。
・学校で斡旋していた肝油ドロップ(1回も買ってもらったことない)
・学校に売りにきていた科学と学習(1回も買ってもらったことない)
・祭りの時のりんご飴(1回も買ってもらったことない)
・小学の時に流行った超合金のロボット(1回も買ってもらったことない)
・自転車(高校が自転車通学だったので初めて買ってもらった)
俺が買ってもらえたのは、せいぜい祭りのひよこ、スーパーカー消しゴムなどのガチャガチャくらいのレベルだった。
給食袋を持って帰るたびに、母親が「はあ〜。また来たの?」というので、給食袋が大嫌いだった。金額は2〜3000円くらいだったと記憶している。
近所でボールを持っている子がいたので、ボールで遊ぶときはその子と一緒、家で遊ぶ時はガチャガチャで当てたキン肉マン消しゴムやスーパーカー消しゴムで遊んでいた。
唯一の心の救いは母親が「勉強に関するものだけは、何をしても買ったげるからね。」って言ってくれていたことだ。
これで修学旅行とかは必ず行けるだろうという安心感があった。
俺は母親が大好きな甘えん坊だったのが、たまに両親が大げんかする時があり、それが嫌で嫌で仕方なかった。
小学1年生の時に嬉しいこと、悲しいことを書きなさい。という宿題が出た時に、
悲しいこと「パパとママがケンカすること。」と正直に書いたのだが、参観日でそれが教室に貼られていて、母親から「恥ずかしかった。」と言われて、俺も悲しかったのを覚えている。
幼稚園のとき1回、小学のときは2回転校したので、元からの友達コミュニティーに入るのがちょっと大変で完全に慣れた頃にまた転校、という生活だった。
引越しの理由は親の転勤とかではなく、夜逃げだったんだろうと今では思う。
父親はいい仕事をしておらず、血だらけになって帰ってきたり、警察に捕まったりすることがたまにあった。
車にはいつも木刀が積んであり、細い道で対向車が下がらなかったときなどは、木刀を持って外に飛び出して行っていた。
そんな俺にターニングポイントがやってくる。
小学4年生の時だ。
両親が喧嘩した時に、父親が家に火を放った。
もちろん、警察も来て大騒ぎになった。
その次の日、母親が出て行って、俺らは3人暮らしとなった。
そのうち、家も追い出されて学校に行けなくなってしまい、森で暮らすようにようなった。
親父が乗っていたバンが、俺らの家だった。
川の水を飲んだり、公園の水を汲んでおいたり、あとは大きい食パンを買ってきてそれを少しずつ分けて食っていた。
ある日、俺らが住んでいた森でカブトムシの幼虫を見つけ、それを街に売り行くようになった。
それでいいものが食えるようになった。
カブトムシのシーズンが終わると、深夜に養殖のアサリを盗む生活へと変わった。
盗んだアサリは、スーパーの前で売る時と、田舎の家、一軒一軒回って売る場合があったが、やはり俺らの売る力が結構大きかったように思う。
アジアの物乞いを見ているとよくわかるが、貧乏な大人から買うよりも子供から買ってやりと思うのが人情というものだろう。
そして小学5年生(ずっと学校に行ってなかったのだが)の2学期のどこか途中だったと思うが、大人が何人かやってきて親父と話すことがあった。
しばらくしてから俺らは、親父と別れることになる。
今思えば、児童相談所とかそういうところの人なんじゃないかと思うのだが、とにかく親父は説得されたんだと思う。
俺らは山口県の祖父母のところに預けられることになった。
ここからがまた面白くない生活だった。
祖父は俺と45歳差で若い上に、自己中の塊だったので俺は苦しめられることになる。
とにかくワンマンだった。
今ではヤツが脳に何かの障害を持ってたのだろうとわかる。
「勉強するくらいなら家の手伝いしろ!」
「夜遅くは電気代がもったいないから早く電気消せ!」
俺の手伝いは毎日の庭掃きと廊下掃除、あとは細々としたルーティーン、神棚の水交換や新聞とりなどがあった。
庭掃きなどは、近所の友達とかに見られるのが恥ずかしかった。
ものすごい癇癪(かんしゃく)もちで、すぐに罵倒してくる。
そして暴力も振るうこともあった。
俺は祖父が大嫌いだった。
早く死なないかなあといつも思っていた。
たまに、機嫌がいいときは小遣いもくれるのだが、普通の家庭に育ちたいと何度も思った。
他人の心を考えないことなどよくあった。
勉強ができるような環境では全くなかった。
たまに、塾の先生なんだから、自分の学歴がうんたらかんたら言ってくる人がいるが、それは視野の狭い人だと俺は思っている。
フィリピンのスラムの子に、他のやつもやってるんだからお前も頑張れって簡単に言えるか?
スラムの子には子守もあるし、家の手伝いなど他にもやらないといけないことがいっぱいあるのだ。
勉強だけをやれる環境にある温室で生まれたそいつらは、「パンがなかったらブリオッシュを食べたらいいじゃない。」って、言うかもしれないけど、世の中全員がアントワネットではないのだよ。
俺は塾なんかいけるはずもないし、夜は電気が禁止なので勉強できない。
まあ、勉強なんかに興味なかったからそこはどうでもいいんだけど。
そして高校進学の際、俺は密かに決めていたことがあった。
それは夜間高校に行くことだ。
とにかく俺は家を出たかった。
くそジジイと暮らしたくなかったので、俺は進路の決定ギリギリまで自分の志望校を明かさなかった。
もしも夜間高校に行って家を出ることを早々と宣言してしまうと、ジジイからの当たりがまた強くなってしまうからだ。
志望校選択の期限前日、俺はおばあちゃんに夜間高校に行くことを告げた。
祖母はびっくりして近所に住んでいた叔母に連絡をいれた。
説得してくる。
「おじいちゃんも少しずつ優しくなってきてるから.....」
「夜間に行っても仕事はないし....」
「あと3年したら家を出たらいい.....」
所詮、中学3年生だった、俺は説得に折れて近所の工業高校に行くことにした。
女の子がいる学科じゃないと行きたくなかったので、化学科を選択した。
親戚の言うように、祖父はだんだんうるさくなくなった。
いや、孫と暮らす生活になれたのかもしれない。
もしくは俺らの方が強くなってしまったのかもしれない。
家の手伝いは相変わらずだったが、普通に勉強する時間が確保ができた。
環境にハンディさえなければできるのだよ。俺は。
1年から3年までトップだった。
圧倒的1位を取り続けて卒業した。
そして地元の一部上場化学企業に就職した。
「よし。世の中に追いついた。」
そう思ったね。
高卒で大企業の三交代の工場勤務。
何度も一番いいと祖父や周りのみんなから言われてきた職場に俺は入ったのだ。
三交代をすれば定時に終わる。
趣味を持てる。
給料は手当がつくので多い。
家も買えるかもしれない。
自分の生活を充実させることができる。
今まで人の言いなりでしか生きることができなかった俺は、給料を手にすることによって自由権を確保することができるようになったのだ。
ところがだ。
なんと三交代の職場に配属されなかった。
辞令をもらうときに、「技術研究所を命ずる。」こう言われ、「あ?」「技術研究所?」
そんなものがあったのかい、この会社には?
俺ら高卒の新入社員研修のときには工場の話しかなかったから、勝手に俺は行きたい工場や、仕事内容を想像していた。
まさか研究所って、なんや?それは?
科学要塞研究所でグレートマジンガーでも作っとんたんかいワレ?
研究所とかいう謎の場所に配属されて、俺は追い込まれてしまうのであった。
まあ、そういうわけで色々ありながら、高卒で会社に入ったのだが、その後、大学受験を始めて大学生になった。
ま、普通の大学生と違ったことは、大学1年生で結婚。
世帯主で市営住宅に住みながら通学。
大学院1年生で娘ができて3人家族になった。
大学院の成績はオールAね。
もちろん大学の成績も同じような感じ。

(あっ、これハノイ大学入学用にとった成績証明書)
卒業後会社に戻ったものの、金持ちになりたい衝動がすごくなり、会社を辞めた。
引き止めで26連続で毎晩毎晩、違う上司や先輩から飲みに連れて行かれた。
毎日毎日「みかみ、考え直そうぜ。」って色々な人から声をかけてもらえて、本当に感謝しかなかったけど、俺は挑戦がしたかった。
結局、すぐには辞められず、その1年後に退職が認められた。
そして最初は、家庭教師の会社を作った。
ま、会社って言っても俺が電話を受けて俺が俺を派遣するわけなんだけど。
そのうち、自分のコマがいっぱいになって、バイトも雇うようになった。
お客さんから一コマ3000円いただいて、一コマ1500円を先生に払う。
びっくりしたね。
だって、他の先生を派遣するだけでその先生がもらえる時給と同じ金額が自分の財布に入る。
これが自営業かと思った。
その後、自分の時給を段階的に上げていって、1時間6000円まであげたところで、東京とかからも電話がかかってくるようになり、お金持ち専属の家庭教師に変わった。
最終的にはMMSYっていう4大財閥あるじゃん?
そのMの家に勉強を教えに行ってたよ。
超大金持ちだった。
ロールスロイスが空港に迎えにきてくれて、白い手袋した運転手の車に乗って仕事に行ってた。
そのうち、家庭教師を全部精算して塾を始めることを決めた。
しかもここまでの期間。
退職したのは4月1日。
家庭教師を完全に辞めたのは8月31日だからね。
わずか5ヶ月の出来事。
すごいスピード感じゃない?
毎日毎日変化が起こってすごかった。
そして俺は塾を始めることを決意する。
塾をやろうと思ったのは8月の盆の前だった。
ここからゆっくりめに書いていこう。
俺の貯金は、当時200万円くらいだった思う。
塾の場所を選定しないといけなかった。
家賃月5万円まで、そして大きい中学校から近い(500メートル以内)こと、大通りに面していること。
同時に経営の勉強を猛烈に始めた。
ビジネス本を読みまくるようになった。
戦略本を読みまくった。
俺はランチェスター戦略で成り上がることを決めていた。
名もなきうちに第一法則で徹底的に成功させて、うまく第二法則への切り替えようと思っていた。
弱者から強者に変わる部分である。
滑らかに変えるのではなく、一気に変えようと思っていた。
だから、第一法則、つまり弱者の戦略、いやいやものすごく最弱者であるとして、細心の注意を払う最弱者戦略をとった。
結局、いい物件は見つからず、たまたま道路を自転車で通っていたら、閉店案内の出ているクリーニング屋さんを見つけた。
誰もいなかったのでだったので、隣の家にピンポンして、「隣のクリーニング屋さんはやめるんですか?大家さんをご存知ですか?」と尋ねた。
「私が大家です。」
なんとクリーニング屋さんの隣の家は大家さんだったのだ。
「隣の物件を見せていただけないでしょうか?」
微妙な物件だった。
全体で10坪くらいだと思ったが、部屋の真ん中にオブジェ用の巨大な柱がある。
しかも形がいびつで、3畳くらいの畳の部屋がついている。
真ん中に柱がある部屋がメインの部屋だ、10畳くらいある。
ただ、真ん中が柱......
うーん。
たまに外から、子供の声が聞こえる。
尋ねると裏が小学校らしい。
小学生かあ。
でも、今は生徒が欲しい。
小学生でも幼稚園でも赤ちゃんでも誰でもいい。
生徒が欲しいのだよ、俺は。
その場所を5万円で契約し、1ヶ月後に入居する約束を取り付けた。
さあ、生徒を集めておかなくては。
今の俺には家庭教師の生徒が数人いるだけなのだから。
ゼロからのスタートではないものの、月謝が大幅ダウンすることで、月の売り上げが10万円を切ってしまう。
広告も打たないといけない。
どう考えても赤字だ。
さらには机やらカーテンやらホワイトボードとかも買わないといけない。
さすがに塾用の教材とかもいるだろう。
どこにあるんだ?
塾用教材って。
今のようにネットが発達していなかったので、全部自分で探すしかなかった。
近所のリサイクルショップで本棚を購入し、机はちょっといい8000円のを8個買った。
机だけで6400円、高いわー。
肝心の生徒だが、自分のワープロで「家庭教師が塾を始めました。」みたいな感じでプリントアウトして、コピーして校門配布することにした。
とにかく来てもらわないことには話にならない。
「夏期講習いかがですか?5回で合計500円。500円玉を握りしめてきてくださいね。」
「安い理由はまだ教室がないことです。公民館で一緒に勉強しましょう。」
中学の校門で一人で配っていると、クソガキどもが俺を一瞥して目の前に捨てやがる。
「おいごらあ!コピー代10円かかってるんだぞ!」と思いながら、笑顔で拾い、笑顔で配る日が数日続いた。
惨めだなあ。
夏期講習初日の日、二つの公民館で合計10人くらい生徒が集まってくれたと思う。
公民館の使用料もあるから、当然赤字だ。
500円もらっても仕方がない。
500円もらって領収書を渡すのだが、領収書の書き方さえ当時は知らなかった。
さらに俺は塾に行ったことがなかったから、本当は塾って何をすればいいのかわからない。
面白く教えよう。
人気者になろう。
もはやこれだけだ。
俺の武器はたったのこれっぽっちだった。
その日に教える授業はその日に参考書を読んで、考える。
そういう感じで夏期講習の期間が終わった。
塾を始めることにした。
俺の目が見ているものはただ一つ。
まずは山口県で一番大きい塾を作ること。
そのためには、俺が始めた市の中でさっさと1位をとらないといけない。
始まった時にきてくれた生徒は10人くらいだった。
中3が2人。
中2が2人。
あとは小学6年生と5年生。
よし。
ここから俺伝説を作る。
ランチェスター最弱戦略に則って、そこが塾だと気づかれないようにすべてカーテンをして完全に中が見えないようにした。
もちろん、看板などはつけないし、自転車も遠くに止めてもらうようにお願いした。
入るときは裏口から入ってもらって、秘密裏に授業を始めた。
ちっちゃなぼろっちぃ塾だったが、世界で一番面白くてわかりやすい授業を目指すのだ。
さて、授業をやる上では差別化が必要だ。
どうやって他の塾と違うことをするのか?
俺は塾に行ったことも、塾で働いたこともない。
しいていうなら俺は短期間の独学で、財閥の家庭教師にまでなった男。
胸に赤ペンを一本だけ挿して行って、その赤ペンだけで授業する。
一切の参考書も問題集も使わない。
すべての問題は瞬間自作し、あとはデフォルメした問題で生徒の気持ちを引きつけ続ける。
宿題などは一切出さない。
今すぐ覚えようというスタイルだった。
塾もそれでいくしかない。
生徒にはノートではなく、100均のホワートボードを配布した。
書くところがよく見えるためと、書くことを楽しくするためだ。
時には「せーのーどんっ!」と言って、ホワイトボードを見せてもらって、珍回答を盛り上げたりした。
とにかく面白くて、分かったと言ってもらえる授業にすること。
もうそれだけだ。
毎日授業の感想は必ず親御さんに届いているはず。
すべての親御さんに、子供達が笑顔で感想を言えるように。
「今日も楽しかったよ。」と。
1クラスあたりの人数も次第に増えていき、8人を同時に授業できるようになったときには感動した。
そして8人が同時に座ると狭すぎて、トイレに行けなくなることがわかった。
噂が立ち始めた。
塾の外にいると、どこかのお母さんが塾の中を覗こうとしている。
「この辺に塾があるって聞いたんですけど、ご存知ですか?」
「塾?この辺に塾はないですよ。」
最弱者戦略は目立たないことなのだ。
無人の隙間地域でまずは1位を確定させること。
目立っていいのは噂だけ。
だけど、どんな授業しているのか?
誰が教えているのか?
誰からもマークされないように、徹底的に隠れ続けた。
隠れることで、どんどん目立っていく。
あとは生徒の親御さんにものすごく力を持っている親御さんがいらっしゃり、たくさんの生徒を紹介してくださった。
あっという間に、授業ができない日が来て、引越しを決めた。
それが12月だった。
最初の引越しまではわずか4ヶ月かからなかった。
次の引越しはめちゃめちゃリスキーだった。
場所が悪すぎる。
当時の4大塾が集まっていた場所の真ん中だ。
その市(今はもう統合されてなくなった)は、県内で最も小さい市だったため、100人規模の塾が一番大きい塾で合計で4つ存在していた。
さらには俺の塾が出来た時と、ほぼ同じタイミングで県内最大の塾がその市にも誕生していた。
俺のシナリオでは、ここで一気に100人にしとく作戦だったので、その最悪の場所を譲ることはできなかった。
お客さんは周りの塾から、転塾してくれるのだ。
今ある塾の近くに俺の塾があること。
ただし、もろ刃の剣の立地で、せっかく俺が作った塾も一瞬で木っ端微塵になる可能性もあった。
お金がなかったので、ボロボロの教室でエアコンもない。
ひび割れたコンクリートむき出しの床からは、冷気が上がってくる。
50坪ワンフロアーに8個だけ机がある。
まだ、俺は8個しか机を持っていなかった。
引越しは生徒と一緒にすべて手で運び、俺のお金は敷金に消えた。
こんなにガラガラで、こんな廃墟みたいなところでやっていけるのだろうか?
親御さんが自分の家のストーブを持ってきてくださった。
5個くらいのストーブを輪のように並べ、寂しい気持ちにならないように、スルメを焼きながら授業した。
授業が終わったらみんなで焼けたスルメやら芋やらを食った。
俺にあるのは情熱だけ。
365日無休で、夜中3時くらいまで塾にいる生活が続いた。
だが、予期せぬトラブルはたくさんあった。
その場所で隠れて塾をすることはもはやできない。
今まで秘密だった塾がベールを脱いだ瞬間だった。
果たして50坪を満席にすることができのか?
こんなガラガラのだだっ広い場所を、机で埋めることはできるのだろうか?
(満席にしたら軽く50個は机を置けそうだ)
「噂で聞いたんですけど?」
毎日のように電話がなり、体験の生徒が入ってくれた。
入り口には俺がハサミで切って貼った「みかみ塾」の文字。
お金がないので、生徒の最初の月謝で机を購入する。
生徒が来てくれてば、来てくれるほど机が買える。
ホワイトボードのペンは100均で爆買いだ。
近所の100均にあるペンは片っ端から購入していった。
先生は俺と、俺が会社時代に一緒に働いていた後輩をスカウトして2人で教えた。
周藤先生というのだが、今もずっと本部を守り続けてくれている。
俺がいうのもなんだが、ものすごく優秀な男だ。
俺らの授業スタイルは、ペン一本だけで勝負してるから先生の話術や面白さが必要なのだ。
いかに生徒を惹きつけ続けるか?
そしていかに生徒をやる気にさせるか?
徹底的に言葉を選ぶ。
絶対にネガティブな言葉は言わない。
子供を傷つける言葉は発さない。
「できない子は何時まででも付き合います。」
とにかく生徒が欲しい。
誰でもいいから人数が欲しい。
周りのビッグ4に並ぶためにまずは人数が欲しい。
ここで塾特有の問題に直面する。
「あの子が入ってくるんなら塾やめます。」
「あの子は問題児だから、入れない方がいいです。」
そういう話がどんどん入ってくるようになった。
あの子が入ってきたら塾やめるって、無茶じゃないか?
これ、塾の落ち度なのか?
不良と思われている子を入れるかどうかだ(みんないい子なので、実際は不良という言葉は適切ではない)。
不良と思われてる子だって、もしかしたら頑張れるかもしれないし、何よりも人数カウントされる。
とにかくまずは100人を突破しなければいけないし、また、不良の線引きも難しい。
どこかで不良の線を引いたとしても、必ず他の親御さんから「あの子も不良です。」とクレームが入るはず。
それ以上の最大の問題は、塾の場所がアーケード街で、そこはヤンキーや暴走族の溜まり場だったことだ。
塾の始まる夕方の時間はいいのだが、塾の終わる時間になるとバイクが集まってくる。
生徒は帰るときに、バイクの兄ちゃん達の怖い視線の中を通らなければいけない。
これ、どう考えても集客に影響するよね。
絶対にいなくなってもらわないといけない。
朝になると割れた瓶などが散乱している日もあり、こんな治安の悪い場所で授業をすることが、この先許されるはずがない。
朝の仕事がヤンキーの兄ちゃんが割った瓶の片付け?
おかしいだろう。
はっきり言おう。
俺は生徒のためには、命をかけようとこの仕事を始めた。
自分のためには死ねないが、生徒を守るためなら喜んで死ねる。
俺は暴走族がたむろするたびに、外に出た。
あとは警察に何度も何度も連絡して、パトロールも強化してもらった。
暴走族からしたら迷惑な話で、俺らの塾がそこにできた瞬間から、面倒臭い金髪のおっさんがいちいちやってくるのだ。
そして警察も頻繁にくる。
直接つかみ合いになりそうになったこともある。
授業中に教室の中に石が投げ込まれたこともある。
でも、絶対に出ていってもらう。
死んでも出ていかせる。
暴走族に出ていってもらわなければ、暴走族の溜まり場を通って行く塾など、あってはならないのだ。
そしてここは、今から県下を制覇する生まれたばかりのみかみ塾なのである。
数ヶ月間の戦いが終わり、アーケード街は平和な勉強街へと変わっていった。
同じアーケード街の他のお店から感謝された。
怖いから逆らえずこんなことになったしまっていたけど、みかみ塾が来てくれてよかったと。
暴走族の集会場所はいつの間にか移動していた。
同じ頃に開塾した県下1位の生徒数を誇る塾がある駅の前に.....
(行ってらっしゃいませ。)
さて、不良と言われている子をどうするか問題について話を戻そう。
俺は勝負に出た。
「ウエルカム。」
ただ、近所に新しく教室を借りて、不良が多い学年はそちらに入ってもらった。
教室に謎の穴があいたり、ちょっと授業のクオリティを下げてしまうことになったが、それなりに体をなしていたように思う。
続かない子が出てきたりして、そのクラスもだんだん普通っぽくなってきた。
それ以外にも月謝を振り込みに変えたり、エアコンを買ったり、法人にしたり、今まで知らなかったことを生徒の親御さんに教えてもらいながら、一つず問題を解決していった。
....そしていつしか俺らの塾は100人を超えた。
ふふふ、待っていた日がやってきたぜ。
ランチェスター戦略の転機だ。
俺はここから一気に戦略を変える。
俺が最初に目指していた、戦略転換の日がやってきた。
近所の4大塾には生徒が100人くらいずついたはずだ。
もちろんだが、正確な数字はわからない。
だが今、俺の塾にも生徒が100人いる。
ということは他の塾からの転塾者を考慮すると、俺の塾が一番大きくなっている可能性があった。
だが、俺はこれをよしにするわけにはいかなかった。
県制覇するためには、市制覇なんぞただの通り道。
ゆくゆくは全国1位になるためには予選もいいところなのだ。
一気にガリバーにならねばならない。
予定通りの戦略転換をした。
いよいよ強者の戦略の始まりだ。
今まで目立たないように目立たないようにしていたのを、目立つように目立つようにへと変えた。
そして他の塾がプリントを使っていると聞けば同じようなプリントを使い、宿題を出すといえば宿題を出す。
他の塾のアドバンテージにミートしていった。
市内ナンバーワンの塾としてミートしているので、他の塾の個性は目立たなくなってしまう。
広告のキャッチフレーズで「市内最大塾」を謳いまくった。
「うちの塾に来なくて大丈夫ですか?市内のスタンダードなのに。」
車もベンツに変え、髪も茶髪から一気に金髪に。
「誰あれ?」
「塾の先生なのにベンツなの?」
とにかく噂を立てないといけない。
広告は目立つ黄色一色で毎月入れた。
電話が鳴り止まない。
キャッチフォンのキャッチフォンのキャッチフォン。
電話で授業ができなくなった。
ついた勢いは止まらない。
さらに隣の市へ50坪。
また100坪とどんどん教室を増やしていき、結局2年半で600人にまで生徒が増えた。
中3の夏期講習だけで、大クラスを5クラスも作らないといけなかった。
そして3つの市にまたがって、みかみ塾が認知されることになった。
市内では俺の後にいくつか塾ができたと思うが、地元の中堅以上の大きさになった塾はない。
1教室と2教室を運営する塾では、もはや経営の手法が全然違うし、多教室となるとさらに違うと思うのだ。
自分1人でやるのと、誰かに他を任すこと。
自分のカラーだけで勝負できる戦いと、自分の思想を誰かに託すのでは経営の難しさは5倍くらい違ってくると思う。
1つ目の塾と2つ目の塾では、安定させるための難易度が全然違っていて、3教室、4教室と教室が増えるたびに自分の色が薄れてなく。
何よりも生徒を引きつける求心力が、格段に下がってしまう。
だけど俺らは負けなかった。
大手と全く違う手作り感満載の、いや手作り感しかないやり方で、とにかく生徒に全力を尽くす。
愛を込めてみかみ塾という社名の元に、「迷ったときは、愛を込めてるかどうかで判断してくれ。あとで絶対に文句を言わない。」権限をガンガンに委譲し、仲間と共に塾を大きくしていったのだった。
ところが、この勢いは止まることになる。
そしてこれ以降、俺らの塾が急成長することはなかった。
生徒がバンバン入ってきて、教室の数も増えた。
ところが一緒に働いていた先生たちが怒っている。
「みかみ先生、一体どれだけ生徒を増やすつもりですか?」
「うん?いけるところまで。」
「こんなスカスカなやり方でいいと思ってるんですか?」
「しょうがないじゃん。大きくするときには必ず起こる問題なんだから。」
「これで、愛を込めてみかみ塾って言えるんですか!」
実は俺も苦しんでいた。
生徒が増えるということはものすごいパワーがいることなのである。
授業中なのに電話が鳴る。
体験が毎日来る。
入塾がほぼ1日1人のペースで来る。
何よりきつかったのがクラス分割なのである。
生徒が増えるとクラスを分けないといけなくなる。
例えば、最初Aという先生が教えていたとしても、クラスを分けるとAとBという先生になる。
つまり、Aの先生のままのクラスはいいが、AからBの先生になったクラスの方に不満が残るのだ。
あまりにも入塾の速度が速いために、AからB、Bからと短期間で先生がどんどん変わっていく生徒が出てきてしまう。
そういうクラスになった子供の親御さんからは当然クレームが入ってしまう。
俺らは仲が良かったので、授業がすんでからも毎日数時間、生徒のことを話していて残っていた。
だから、お互いの生徒の雰囲気はそれなりに把握していたのだが、それでも急拡大による弊害は確実にあった。
だからと言って、もしここで入塾のペースを落とすと、県で1位になることが非常に難しくなってしまう。
勢いというのは極めて重要なのだ。
つまり1位を捨てるのかという岐路に立たされる決断を迫られている。
だが、仲間は宝だ。
愛を込めて...という信念に集まって授業している塾の社長である俺が、愛を込めない授業をしてはいけない。
「.....わかった。募集を打ち切ろう。」
俺は、自分の目標であった県制覇をここで断念した。
全教室全生徒募集を停止します。
これでいい授業ができる。
でも、何か辛いことがあるたびに、あの時のことを思い出して一言言いたくなる気分が1年くらい続いた(だけどこの選択は正しかったと思っている、みんなありがとう)。
と同時に俺のパワーの原動力が半分くらい失活してしまい、企業を辞めてから馬車馬の如く突っ走ってきた俺のオーラが消えた。
そして、俺の心は彷徨い始めた。
矛盾していたが、飢えた俺の血が次なる目標を探し始めるようになっていた。
「せんせー。お願いがあるんですけど。」
中3のあいこちゃんのお母さんが、いきなり塾に来られた。
..........これがみかみ一桜、第2章の幕開けだった。
生徒はすでに600人。
定員で募集ストップしてからの、モチベーションが下がってしまった。
なぜなら、とりあえず県下ナンバー1の塾を作ることを目指していたので、県下ナンバー1への道が絶たれた今、何をガソリンにしていいのかわからない。
勢いが止まった塾に慣れていなかったこともある。
これでいいのか?と言う不安感がずっとあった。
そんなときに、中3のあいこちゃんのお母さんが塾に見えた。
「先生、お兄ちゃんみてもらえないですか?」
「お兄ちゃん?お兄ちゃんって双子ですか?」
「高校3年生なんですけど、化学の方を.....」
「すみません。高校生はやらないんですよ。」
俺が塾をやってる理由の一つに子供好きだということが挙げられる。
中学生とばっかり授業をしていると、高校生が大人に見えてしまう。
大人はちょっとね...
「先生じゃないと頼めないんですよ。」
「他の塾があるじゃないですか?他の塾で習われたらいかがですか?僕は高校生やってないんですよ。」
「先生、東大を受けたいんですが、化学だけが苦手なんです。」
「......東大?」
まあ、そうなってくると話はちょっと別なわけで、俺は15歳から化学をやりまくってるし、大学受験の時の偏差値もすごかったし、そもそも化学で生きてきた男なので、それなら仕方ねえなあってことで、受けることにした。
「でも、23時以降じゃないと空いてませんよ。」
そしてだいすけくんと勉強するようになって、次の模擬試験でだいすけくんが県で1位をとった。
その時の俺は、それくらいは当然だと本当に考えていた。
「さすが先生ですね。」
「ああ、そうですね。」おわり。
さっさと東大に合格してもらって終わりにしようと思っていたら、だいすけくんがごうくんを連れてきた。
「ちょい、なんで友達連れてくるの?」
「いや、化学がよくわかるって話したら行ってみたいって....」
友達なんか連れてこなくていいのに。
授業を終えたごうくんは、その日喜んで帰って行った。
次の週にまほこちゃんが来た。
「ちょい。増やさんで!」
めっちゃやりにくい布陣だった。
理数科のだいすけくん、理系のごうくん、文系のまほこちゃん。
あー、やりにくー。
なんのモチベーションもなかったが、俺は化学が出来すぎるので、俺のやり方を説明するだけで十分だった。
本も参考書も必要ない。
ペン一本で授業をした。
そして、学校の定期テストを迎えた。
適当にテスト対策して、「はい。みなさん明日は頑張って。」と送り出した。
まあできて当然。
俺が教えてるわけだし。
そしてテストが返ってきた。
なんと、理数科のだいすけくん、理系のごうくん、文系のまほこちゃん。
3人ともそれぞれの科で化学が1位だったのだ。
さすがにこれはびっくりした。
ローカルの戦いの中学生をやるよりは全国区の大学受験化学をやった方が、成功確率が高いのではないかと考えるようになった。
センターの平均点は、全国の受験生で比較することができるのだから。
これ当たったら全国区じゃね?
そうと決まったら、大好きな子供(中学生)との勉強を捨てて、お金の匂いを感じる高校生へとシフトだ。
クンクン なんだかいい匂い。
俺は新しいブランド「みかみ塾2(ツー)」を立ち上げて、高校生の化学を教えるようになった。
同時に、中学生とはお別れを決断した。
翌年、口コミがすごくて生徒がものすごく入ってきた。
地元最難関の徳山高校の全生徒数の3分の1近い生徒が、塾にきてくれるようになり、同じ授業を月火水木金とやった。
入塾は好きな曜日に入ってください。という感じだった。
その年から、徳山高校がセンター試験の化学で県下トップに立つようになった。
当たり前だよね、俺が3分の1も教えてるんだから。
こんなにすごいんなら、俺、本が書けるんじゃね?
試しにブログで「誰か本の書き方教えて?」あるいは「出版社紹介して。」って書いてみた。
そしたら「出版金の卵コンテストってのがありますよ?」って教えてもらった。
金の卵コンテストー?
俺、コンテストとか得意やんけ。
みたいな感じで、応募してみた。
その時にA4用紙1枚程度の企画書と本文数ページ分ってのが、申し込み書類だったんだけど、企画書って書いたことないじゃん。
書き方はもちろんわからなかったんだけど、どんな本を書こうかなーってことになったわけ。
まあ、当たり前だけど、普通に本書いても仕方ないじゃん。
だって誰も俺のことを知らないんだから。
そこで俺の化学を分析した。
俺のテストへのこだわりは問題を解くスピードにあるんだよ。
とにかく速く解きたい。
誰よりも速く、日本最高速度ギネス記録で100点取りたい。
世の中に30日で完成とか、2週間で完成とかいう参考書は数多あるが、20分で解くというコンセプトの本はない。
よし、俺の参考書は問題を速く解くという切り口で書こう。
早く勉強できるのはなく速く解くだ。
あとはネーミングだ。
ここがきっと一番重要だ。
もはやネーミングで半分くらいきまるはず。
誰も俺のことを知らないのだから。
速い化学、できちゃう化学、裏技化学......
ヒキョーな化学⁉︎
おっ、これだ。
これでいこう。
そして企画書というものを、なんとなくで書き上げて俺は送った。
そこで1位になったら、そのまますぐに商業出版されるらしい。
よしよしよし。
発表と表彰式は横浜ランドマークタワーで行われる。
これは行かなければ...
俺様の勇姿をみんなに見せつける必要がある。
初めておろす俺の勝負服と、いつもより鮮やかな金髪。
背広のサラリーマンみたいなやつばかりの中に異彩を放つ俺がいた。
「おいおい、お前ら、できるやつは見た目から違うんだからさ。」
100人くらいがいただろうか。
熱心にみんなが名刺の交換をしている。
悪いけど俺は全く興味がない。
金の卵とは俺様のこと。
最初から俺を見出すためのコンテストなのだ。
他のやつには用事がない。
表彰式が始まった。
3位から発表されるらしい。
3位?
おいおい、俺の名前呼ぶなよ?
俺は祈った。
「発表は......○○さんです!」
よかったあああ。
こんなところで呼ばれたら、困るからね。
しかも..プププ...3位の人喜んじゃってる。
「今回は3位の作品も出版したいという出版社があったので、出版とさせていただきます。」
....笑。
3位で出版とか嬉しい?
本屋に3位で出版ってpop書くの?
「さあ、2位の発表です。」
勝負はここだ。
ここで呼ばれなければいい。
「.......○○さんです!」
勝った。
俺は勝利した。
金の卵で生まれてきた俺は、金の卵として生きていくのだよ。
2位のあなたおめでとう。
心からお祝いさせてもらうし、あなたがいなければ俺もいない。
そして、1位の発表。
俺は登場の仕方、賞状のもらい方、インタビュー、瞬時にシナリオを考えた。
そして
「1位、ヒキョーな化学、みかみさんです!」
ってのに備えてたのに、違う人が呼ばれてしまった。
あのさ.....
言っていいかな。
俺1位ばっかりだったから、1位以外の振る舞いに慣れていないのだよ。
俺の上に24時間照りつけているはずの王者の太陽は何処に?
俺が3位の中にさえ入れないって、名前書いてましたっけ?
こんなに目立つ格好でいるのに、これじゃあ「痛い人間コンテスト1位」になってるざます。
俺は恥ずかしかった。
もはや、俺を支える筋肉も骨も軟化していた。
体を支える細胞壁が欲しい。
茫然自失の俺は、1人静かに会場を後にした。
1位の人がインタビューされている。
そして審査委員長が何か言っている。
「えー、今回は素晴らしい作品に恵まれて大成功でした。ですが、1人だけ申し訳ないのですが、選外とさせていただきました。本日は小説等のコンテストなのですが、参考書を出された方がいらっしゃいまして......」
え?
参考書出しちゃあいけなかったの?
おっちゃんよぉ〜。
真っ白によぉ。
俺は真っ白に燃え尽きちまったぜ。
塾に戻ると他の先生たちが待っていた。
俺の出版を祝ってくれるためだ。
「やー、なんか小説のコンテストだったみたいで....」
「あっ、そうなんですね。」
みんなが笑顔で気を使ってくれる。
「マジで本当だって。」
みんなは俺が負けていないことを信じてくれていなかった。
俺は負ける以前に、審査員の目にさえたどり着いていなかったんだったって。
そして次の日、ある出版社から電話がかかってきた。
「なんか、金の卵に間違って出したんでしょ?ウチから出しませんか?」と。
トントン拍子で話が進み、あっという間に俺の本が書店に並んだ。
1週間後に増刷がかかり、また増刷の連続で、その年の化学の参考書の売り上げ部数日本1位になった。
.....やっぱり俺って本物だな。
というわけで俺の全国展開が始まるのであった。
いつかに続く。